曖昧

私自身は日常的に煙草を吸うことをしないが、

よく煙草をモチーフにしたイラストを描く

 

私にとって、煙草は死をイメージさせるアイテムなのだ

吸うと健康が害されて寿命が縮まるんですよ、という意味ではなく、

単純に、自分にとって大切な人が吸っていたから、という理由である

 

出会ってから一緒に過ごしていた期間の3倍ぐらいの時間が、その人が虹の橋を渡ってから経過している

写真を見せられたらこの人だと答えられるけど、もう自力でははっきりと顔を思い出せない

何もかも、とどめておくことができない

まるで煙草のケムリのようだわ

 

私自身は日常的に煙草を吸うことをしないが、

それをするときは必ず空が見えるところでと決めている

 

 

 

終わり

多分降らない

共感覚などではないはずだけれど、特定のものに対する感覚が偏っている方だとは思う

 


特定の色の組み合わせになると、文字と図柄の区別ができなくなったり(一応色覚異常はないはずで、おそらく文字なんだろうというのはわかる、けれど何と書いてあるのかすぐにわからない)

 

特定の材質の紙に印刷してある文字は目を滑って逃げていく

 

特定のフォント(特に明朝体寄りのもの)は目に刺さって読み進めるのに時間がかかるとか

 

自分で考えても そんなアホな の連続

 

例えば、絶対に作業できないのが
白いテーブルの上で白いものを扱う、
白いテーブルの上で白い封筒に白いテープをまっすぐ貼っていく、みたいなシチュエーション

それが分かっているから、逆に作業用でないテーブルはあえて白色を選ぶ

 

高い密度で描くのも、それゆえなのかもしれない

 

雪原も本当に苦手なので、友人からのスノボのお誘いも数年間断り続けている
虹色の雪が積もったら行く

 

 

終わり

メルヘンは死んだ

周期的に来るそれ

 

初めては、小学生の頃

 

教室の一番前の席で、先生の話を聞いていた

座って先生の顔を見上げていたはずなのに、まるで先生の大きさが縦向きの千円札と同じぐらいに感じられた

 

牛乳瓶を洗いに行った手洗い場が、まるでジャングルジムぐらいの高さに感じられた

 

もちろん、プリントを受け取りに行けば先生は標準的な大人の背の高さだと分かるし、

よじ登る必要なんかなく、蛇口に手を伸ばせば難なく手が届く

 

違和感を感じながらも、うまく説明することもできず、

そういうものなのかなと思っていた

非日常的だったけれど嫌な気分にはならなかった

 

成長するにつれ、周りのものが異常に小さく感じられることはなくなったけれど、

その逆は今でもある

 

時々、目の前のスマホの画面が30mぐらい先にあるように感じられたり、

パソコンの画面がロッククライミングの壁のごとくそびえ立っている気がすることがある

 

 

大学生のとき、ついにそれっぽいワードを入れてインターネットで検索したら、

不思議の国のアリス症候群(Alice in Wonderland syndrome)と出てきた

めっちゃメルヘンな名前やな、と思ったのを覚えている

 

それと同時に、私の中のメルヘンは死んだ

私の中のメルヘンは、誰かの言葉により説明できるものだったんだなあと

なんだか悲しく、寂しい気持ちになった

 

だからと言ってどういうこともないんですけどね

 

 

終わり

星を掴む人2

これまでに、身近な親戚・知り合いにも虹の橋を渡っていった人は何人かいる

ただ、不謹慎な表現かもしれないけれど、ほんのりとであったとしても、虹の橋への旅立ちを「予告」されていたのは今回が初めてだった

 

これまでは、亡くなった人と最後に交わした言葉は「さようなら」だったし、その「さようなら」は、発した時には互いにとってまったく違う意味を持っていた

 

今回は、ずっと「またね」と言っていた

またね

 

 ずっと、私の描く絵の根底には「死に行き着くこと」が在った

死に行き着くこと・生命の喪失は、その瞬間に、世界から全ての音を吸い取ってしまうのだと考えていた

 

けれど実際は、残響がそこかしこに在る

残響が可視化できるのなら、残響がゆらゆらと漂っているのではなく、

世界を構成している直接音と反射音と幻聴の区別もつかず、その中を漂っているのは私たちのほうなのではないか

なんてことを考えている

 

自分の絵に大きく影響するのは間違いないと思う

画風が変わるかどうかはまたこれから

星を掴む人

人が亡くなる話なので、苦手な方は読まない方がいいと思います

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先週の日曜日、父方のおばあちゃんが亡くなった

 

本当は先週の土日に見舞う予定だったけれど、木曜日に危篤との連絡が入り、予定を早めて父と旭川に飛んだ

会いにくる全員をきちんと待ってから、おばあちゃんは旅立った

 

納棺師が家に来て、おばあちゃんの体を清め、服を着替えさせ、化粧をした

死装束に腕を通すときに、横たわるおばあちゃんの腕が、高々と天に向かって上げられた

そういえばあんなに高々とおばあちゃんが腕上げてるところ、見たことないな

そのさまを見てようやく、ほんまにおばあちゃん死んでもうたんやな、と思った

 

私を最も悲しませるのはおばあちゃんが亡くなったという事実ではなく

おばあちゃんを愛していた人、おばあちゃんが愛していた人

彼らが悲しみに打ちひしがれていたり、悲しみを押し殺して佇んでいる姿を見る方が

私にとって悲しく、涙が出た

 

つづく

印象に残っているのは、

留学していたアメリカ・ウィスコンシン州の空

 

日が暮れて、夜

暗いのどこか明るい、空がぼんやりと一晩中赤かった

 

時差15時間

 

時折夜空を眺め、感傷に浸りながら

日本の家族・友達と過ごす1日と、ただタイミングがずれているだけの1日だけれども

1日のしっぽと日本のみんなを追いかけていってるみたいだなあ

というようなことを考えていた

 

そんな時に、あんな

ちっちゃい子供とかくれんぼする時に、子供見つけられやすいようにわざとスカートの裾をちょっと見せてあげる大人

みたいな赤い空が覆いかぶさってきたら

いやでもずっと記憶に残るし、きっとこれからも覚えている

 

終わり